いやいやぁ、 何歳になっても勉強ですねえ。
今日の授業で、学生たちのグループワークの様子を見ていて
それまで明示的に自覚できていなかった自分の思考を、強く意識させてもらうことができました。
問題とは、
「現状」と「目標」のギャップですよね。
ギャップを埋めるものが「方策」。
それは、私自身も普段からよく口にしています。
それから、
「現状を起点にするのではなく、目標を起点にせよ」
という話も、普段からしています。
これらは、私にとって既知です。
なにが気づきかと言いますと・・・
現状を起点にした目標設定は、
これだけの高度情報化社会なので
自分たちだけでなく、ライバルもできること。
現状を起点にした問題設定は、
ライバルも含めて、みんな同じ問題を解くことになる。
勝ち負けの分かれ目は、
方策の巧拙。
「だから、方策を裏打ちする技術力が重要だ」 とか
「だから、方策を送り出すまでのスピードが重要だ」 という言い分はたしかにありうる。
でもね、
ライバルも力をつけている昨今、
同じ問題を解いているだけでは、 勝てない場合もあるわけです。
まして、勝ち続けることは至難の業。
じゃあ、どうする??
その答えの最有力は、
解く問題そのものを、自分たち独自にすること。
そのためには、どうする??
問題を設定する際の変数は2つしかない。
それは、「現状」と「目標」。
そして、
現状を起点にすると、
みんな同じ問題を解くことになりかねない。
ならば、答えは、一つしかない。
目標を起点にすること。
なぜ、目標起点が重要なのか。
それは、自分たち独自の問題を創るために。
コモディティ化を脱却する突破口は、自分たち独自の問題設定すること。
自分たち独自の問題設定の鍵は、目標起点。
これが、今日あらたに手に入れた気づきです。
問題が違えば、
自ずと方策は異なる。
方策レベルでしか、差別化できない競争より
方策レベルどころか、問題レベルで差別化する競争のほうが
競争優位を確立できる余地が大きくなることは明らか。
いやいや、
なかなか良いトピックセンテンスを手に入れたような気がします。
そうなりますと、
いかにして、目標起点の思考を実践するか。 ですよね。
だから
私は、理想追求型という新たな思考プロセスにこだわったということなのかな?
理念 → リードユーザー → リードユーザーのDo
そういうブレイクダウンは、
目標設定を可能にするんだと思う。
今日はもう一つ、
ほかの先生からの質問がきっかけで、自分自身の考えがより鮮明になったことがあります。
それは
「設定した目標が正しいかどうかは、なにをもって示すのか?」 という問いです。
その問いに対する私の答えは、
「判断は、正しいか否かではなく、好きか嫌いかなのだと思う」 です。
およそ理工系にあるまじき答えではありますが
でもね、行きつく根源は、
合理的な判断ではなく、 魂だと思うんですよね。 ほんと、非科学的ですみません。
でもね、
情動が発達したのは、
意思決定の速度と精度を高めるためとも言われているんです。
イテっ! とか、
アチチ! とか
思考を介さぬ強い感情は
とどのつまり、人間が生存するために備わったこととも言われているんです。
「いま、自分は出血しているのか?出血とは何だ?このまま放置すると、自分はどうなるのか?」
なんてことをいちいち左脳に任せて判断させたら、
判断中に死んじゃう。
やけどもしかり。
「いま、自分には、チンチンに熱くなったヤカンから噴き出た水が体全体に降りかかった。これは何を意味するのだ?たしか、異常なまでに急上昇した温度は、体に悪い影響をするという知識を持っている。いま、自分はそういう状況に直面した。この直後に、自分は何をすべきなのか?」
なんてこそ、いちいち考えていたら、死んじゃう。
合理的な思考は、
少なからず時間を要します。
そんな時間をかけている場合ではない局面がある。
瞬間情報処理を可能する仕組みが、情動判断。
あながち、これこそが、正解の場合が少なくない。
感情の重要性は
その場その場の日常生活だけでなく
経営でも同じ。 そういうことが、結構、言われてます。私も、同感です。
データを集め、高度な分析することは、
仮説の検証としては良いけれど、
正解を出すこととは、違う。
先立つものは
現状分析ではなく、
魂が生む仮説。
その仮説がほんとに正しいのかを収束的思考で検証するのがデータ分析であってほしい。
自分の経験をもってしても
発散的思考でデータ分析は無用。 というか、弊害。
そうでなければ
独自の未来像は、創造されないと思うんですよね。
すみませんね、
勝手な私見です。
私見ですが、直感的に、このほうが良い問題設定と問題解決ができると思ってます。