自分の成長を自ら望むのなら、
自分に機会をもたらす人に対して
自分がどれだけ吸収力があるのかを
自らアピールしなくてどうすんだ。
重要なのは
1項目に対して延々と書き綴ることよりも
今日はいくつの項目を吸収したのか
という「量」に重きを置くべき。
なにか勘違いしているようだが
訓練しなければ「質」は上がらないのだよ。
質を上げる前にやらなければならないことは「量」だ。
「質」を上げるには、まず「量」なんだよ。
わかってる?
昨日は
パッと思うだけでも少なくとも4つは感じ取るべきことがあったはず。
誰一人
そのうちの一つも触れていないことにガッカリです。
「感性」ちゅうのは
外部刺激をどれだけ取り入れることができるかを表すのだが
果たして分かっているのだろうか?
なにも感じ取れないのなら
それはそれで仕方ないと思う。 鈍感なのだから。
「性能の悪いセンサーに、センサーの精度を上げろ」と言ったところで、意味はないと思う。
センシングできない人間に新たな刺激を提供したところで、馬耳東風。
提供する側がバカバカしい思いをするので、
そんな思いをするくらいなら、いっそ、別のセンサーを探したほうがいい。
そう思うのは、私だけなのだろうか?
吸収力の有無と程度を
相手に表明するのは
機会を与えてもらう側の責務だと思いますよ。
これをもって最後通告とします。