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Channel: ひょんなことから国立大学助教授になった加藤雄一郎の奮闘記
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認知環境とは

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相互知識は、哲学者が創作したもの。
しかしだからといって、人が情報を共有することをしているのではない。
第一に、伝達過程自体が共有情報を生み出す。
第二に、伝達が達成されるとすれば、何らかの情報の共有が必要である。

P45  人間は皆同じ物理的世界に住んでいる。皆この共通の環境から情報を引き出し、できる限り最高の心的表示を構成するという仕事に生涯従事している。

<疑問>
「心的表示」、「想定」、「認知環境」の違いは?

しかし、皆が同じ表示を構成しない。
理由1) 狭い意味での物理的環境が異なるから。
理由2) 認知能力が異なるから。
→ 認知環境(顕在的な想定すべての心的表示?)は個々に異なる。だから、刺激(企業からの提案)に対する推論が個々に異なる

知覚能力の効率性は個人個人で違う。
言語が違う。これまでに修得した概念も違う。
その結果、異なる表示を構成し、異なる推論を引き出すことが可能になる。
記憶もまた違うし、それぞれの経験に、異なる方法によって関係づける理論も異なる。
したがって、たとえ同じ狭い物理的環境を共有しても、認知環境(cognitive environment)はやはり異なるのである。

人間の認知能力の一つは視力である。
視力に関しては個人個人は自分に見える現象すべての集合体とみなすことのできる視覚環境にいる。
一個人に見える物は、当人の物理的環境と視力両方の関数である。
伝達の研究では我々は概念的認知能力に関心があるので
目に見える現象が視覚認知に対して果たす役割を、
顕在的な事実が概念的認知に対して果たしていると提案したい。
→ 視覚環境は「自分に見える現象全ての集合体」。ならば、認知環境は「自分が認知できる想定すべての集合体」。さらに変換すると、「自分が思い浮かべることのできる想定すべての集合体」。これが個々人によって異なる。だから、刺激(企業からの提案)に対する推論が個々に異なる。

(39) ある事実がある時点で一個人にとって顕在的(manifest)であるのは、その時点でその人がそれを心的に表示し、真、または蓋然的真としてその表示を受け入れることができる場合、そしてその場合のみである。
→ 「顕在的」という意味は、心的に表示できて、しかも、それを受け入れている状態。

(40) 一個人の認知環境(cognitive environment)は当人にとって顕在的である事実の集合体である。

顕在的であるためには、知覚可能もしくは推論可能でなければならない。
個人の総合的認知環境とは、その当人が知覚したり推論したりすることのできる事実全ての集合体、
すなわち当人に顕在的な事実全部の集合体ということである。
→ 「認知環境は、自分が認知できる想定すべての集合体」 → 「認知環境は、自分が思い浮かべることのできる想定すべての集合体」 → 「認知環境は、自分が知覚したり、思い浮かべたり、推論したりすることのできる想定すべての集合体」。これが個々人によって異なる。だから、刺激(企業からの提案)に対する推論が個々に異なる。

個人の総合的な認知環境とは、当人の物理的環境と、認知能力の関数である。それは当人の物理的環境の中で当人が認識している事実全部だけでなく、認識可能な事実全部から構成されている。個人が実際にしている事実の認識、即ちこれまでに修得した知識は、もちろんさらに事実を認識する能力に貢献する。記憶された情報は認知能力の一部である。

・ 認知環境は、自分が認知できる想定すべての集合体
・ 認知環境は、自分が思い浮かべることのできる想定すべての集合体
・ 認知環境は、自分が知覚したり、思い浮かべたり、推論したりすることのできる想定すべての集合体。その後の外部刺激の認識に影響する。刺激(企業からの提案)に対する推論に影響を及ぼす。

<変更点>
1. 「事実」から「想定すべて」に拡げる
2. 顕在性の程度を区別する

視覚的幻覚が真の視覚と区別がつかない可能性があるのと同様、
間違った想定が真に事実的な知識と区別がつかない可能性がある。
幻覚が「見える(visible)」のと同様に、
真偽にかかわらず、どんな想定も個人にとって顕在的であり得る。
もしある認知環境がある想定を採りあげるのに十分な証拠を提供すれば、
その想定はその認知環境の中で顕在的になる。

見えるものはなんでも視覚可能であるが、その程度には差がある。同様に「顕在的」ということに関しては、
個人が構成し、真、または蓋然的真として受け入れることのできる想定はすべてその当人にとって顕在的である、顕在的な想定のうちで、思い抱く可能性の高いものはより顕在的であると定義したい。人間の認知機構はある種の現象(即ち知覚可能な事物や事象)を特に顕著にする。ある現象が認識されるとき、そのことに関する想定のうち、一般的に呼び出し可能性が高いものとそうでないものとがある中でも最も顕在的な想定はドアのベルが鳴ったということであり、その証拠は顕著で決定的である。
→ 「認知環境は、自分が認知できる想定すべての集合体」 → 「認知環境は、自分が知覚したり、思い浮かべたり、推論したりすることのできる想定すべての集合体」。認知環境は、個々人によって異なる。その後の外部刺激の認識に影響する。刺激(企業からの提案)に対する推論に影響を及ぼす。さらには、認知環境を構成する想定は個々に顕在度が異なる。ある現象に対する認知過程では、より顕在度の高い想定の影響を受ける。価値共創者である顧客と正しくコミュニケーションするためには、提案内容が的確に情報処理されるに相応しい想定の顕在度が高まっていることが重要になる。
 
P55
個人の認知環境は、当人が利用可能な想定の集合体
→ 認知環境は、自分が知覚したり、思い浮かべたり、推論したりするなど、当人が利用可能な想定すべての集合体」。

考えが頭に浮かぶこと
想定していることから演繹可能なことも弱い意味での想定といえる

2つの生物体が同じ視力と同じ物理的環境を有するかぎり、
同じ現象はそれらにとって視覚可能であり、視覚環境を共有しているといえる。
しかし、視覚能力と物理的環境は決してまったく同一になりえないので
生物体は全視覚環境を共有することはない。
さらに、視覚環境を共有する2つの生物体が実際に同じ現象を見るとは限らない、。
単にそれが可能であるというだけである。
同様に、同じ事実と想定は2人の人間の認知環境において顕在的な場合がある。
その場合、2人の認知環境は交差し、その交差部分がこの2人が共有する認知環境ということになる。
2人の人間が共有する全認知環境は、この2人のそれぞれの全認知環境の交差部分である。
即ち、この2人の双方にとって顕在的な事実全部の集合体である。

もし人間が認知環境を共有するとすれば、
それは明らかに人間が物理的環境を共有し、同様の認知能力を持っている場合に限る。
しかし、
物理的環境は決して厳密に同一になることはないし、
認知能力は以前に記憶した情報に影響されて、ひとりひとり様々な点で異なる。
したがって全認知環境を共有することは不可能である。
2人の人間が認知環境を共有するといっても
同じ想定を創り出すということを意味するのではない。
単にそれが可能だというだけである。

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伝達とは、伝達者と聞き手の間にコードと文脈の選択に関するある種の調整(co-ordination)を要するものであるとされている。しかし、調整の責任は伝達者と聞き手の間で均等に分かりあうべきものなのだろうか。<中略(社交ダンスの例)> 聞き手が理解過程の中で利用できて使うことができそうなコードや文脈情報に関して、正しい想定をする責任は伝達者に任されている。誤解を避けるという責任もまた話し手にある。聞き手がしなければならないのは、簡単に使えるコードや文脈情報は何でもそのまま使うということだけである。
→ 推論時は、文脈が関わる。文脈は・・・(推論に使われる想定の部分集合)・・・。聞き手に適切に文脈を設定してもらうことが肝要。それを可能にするのは何か。伝達者と聞き手の間で共有された「意図」である。といえたらいいなぁ

→ ある文脈価値の提案はいかにして聞き手によって受け入れられるのか。その文脈価値を聞き手がもともとニーズとして顕在化している場合、つまり、その文脈価値が顧客の中で呼び出されやすい想定として存在している場合は、提案は容易に受け入れられるだろう。では、その文脈価値が提案時点では想定されていない場合、それが受け入れられるプロセスとはどういうものだろうか。

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