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Channel: ひょんなことから国立大学助教授になった加藤雄一郎の奮闘記
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「信頼」と「期待」の違い。そして、「共感力」。

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わいわい♪
2016/1/22(金) 午後 10:36

昨日のWS後の飲み会は、とても楽しかった\(^o^)/  今日も有意義でした。
何がきっかけだったのかわからないのですが、、、「メンバーのみんなから、信用される存在になりたい」と強く思いました。彼らから見て、相談できる人になりたい。彼ら見て、ご自身が抱えるモヤモヤを受け止めてほしいと思える存在になりたい。そういう気持ちを強くした今回のWSでした。

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「自分の価値は、どれだけの人を輝かせることができたか」 
2016/10/8(土) 午後 1:57

2006年、2010年、そして、2015年。2006年は池田に助けられました。2010年は松村に救ってもらった。しかし、2015年は。さすがにもうダメだった。そんな私なので、まったく説得力がないのですが、人の人生の価値は、自分がスポットライトを浴びることではなく、その人間が、どれだけの数の人間にスポットライトを浴びさせることができたか、で決まると思ってます。いまでもどう思っています。

そして、それは、ブランドマネジメントも同じなんじゃないかな。つまり、事業主体が自ら打ち立てたドメイン・ブランドは何のために存在するのかといえば、その答えは、ほかならぬ顧客の成長・発展をサポートするためにあるのではないだろうか。だから、その成長・発展のための方策を次々と提供している必要がある。かくして、顧客から見て無くてはならない存在になる。

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タイトル 「いつかまた。」
2016/1/17(日) 午後 6:49

いま、インナーブランディングを読み返しています。『「バーゲンダッツは高級なものだから、その価値を守るために大切に扱わなければいけない」という意識が、インナーブランド構築が目指すブランド意識です。』という記述のところで、さきほどから立ち止まって考えています。

今年度で、技術経営を前面に出した専攻が幕を閉じます。そして、それより先に、その考えに共感して私が構えた器が幕を閉じました。よくよく考えると、「まだやれることはあった。ブランドマネジメントを専門にしていたはずの私自身が、ブランディングを怠ってしまった」と、痛烈に思います。

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タイトル 「北風と太陽」
2016/1/18(月) 午後 1:02

太陽として、どんな道具を提供できるか?という発想

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「気がつけばのめり込んでいる。そんなストーリーを描いてみたい」
2016/1/15(金) 午後 6:47

このあいだの濃密な5日間を振り返ってみました。一番頭に残っていることは、
「しんどさなく、なんか自分でもできそうだと思える。最初のうちは楽にできる。しかも、楽しい。だから、次に進みたくなる。進むほどに少しずつ様子が変わっていって、いつしかのめり込んでいた」というストーリーを用意することの重要性。

最初のハードルは低く、自らすすんで次のステップに行きたくなるストーリーを描いてみたいと強く思いました。最初から覚悟を要するストーリーを用意することは、自ら間口を狭めるだけ。この視点から見ると、あの文脈価値達成ストーリーは、、まだ深掘り検討の余地アリです。なぜ、あの初動なのかについて理屈が必要だと思う。下手すれば、ストイックな人たちしか対象にならない。必然的に、間口は狭い。

次に、また別の文脈価値達成ストーリーは、端的に言って、実行主体者側の視点が軽視されている。プロダクトアウト的な発想といえそう。当事者側には、複数の立場がある。個々の立場に個別の利害がある。文脈価値達成ストーリーは、個々の利害の違いを超えて「いいね!」と思えるものにしなきゃ。しかも、要する工数が許容範囲内で。

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タイトル 「強制」から「誘引」へ。
2016/3/21(月) 午前 3:47

いやあ、まいりましたねえ(苦笑い)。頭の中がグルグルしてます。

先日、ある方から「あのとき、先生は我々を試していると思ったんです」と言われました。そのときは固まってしまい、何も言えなかったのですが、今日いろいろ投稿しているうちに分かってきた感じがします。

たしかに。「試した」と言えるんだと思います。もうすこし言葉を足すと、「目を覚めさせたくて、火をつけてみようと思った」です。

プレッシャーをかけて、退路を断たせる。選択肢をなくす。逃げ道を塞ぐ。

これは私の常套手段になっているかもしれません。「かもしれません」ではなくて、「なってます」です(汗)。一昨年にご一緒した某社の女性プロジェクトでも「高校の女子バレー部の鬼コーチみたい」と言われました(汗)。私自身がこのやり方で強くなったこともあり、やってしまうんです。「これが時に不具合を引き起こしている。いまの時代に合っていない」ということを薄々感づいてはいましたが、「薄々」が災いしてズルズルと続けてしまった。昨年ようやく強く認識しました。追い詰められたら、逃げたくなる。現代は特にそうですよね。時代は変わりました。変更が遅くなってしまい本当に申し訳ありませんでした。

「本気」「覚悟」「必ずやり遂げる」といった、強い気持ちで相手と一致していたい。気持ちの強さがピタっと合った状態で相手と一緒に突き進んでみたい。なんとしても結果を出したいから。そういう気持ちが強いのだと思います。

そう思うことそのものは悪いことだと思わない。これからも気持ちの強さの一致を望む姿勢は変わらないと思います。

問題は、そこまでもっていくアプローチです。早い話、今までのやり方は「強制」だったんだと思う。このやり方が通用する相手はいるにはいますが、確実に少なくなっていると思う。

あの一件以来、
アプローチを変更しようとしています。結構大きな変更なので、まだ変更し切れていないのですが、昨秋の集中講義でやってみました。ただ、初めから終わりまで首尾一貫していたかというと、、、うううう。もごもごもご(←口ごもっている様子

アプローチ変更について、自分自身に対して掲げていることは、

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「強制」から「誘引」へ。
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今年1月のブログにも書いた「しんどさなく、自分にもできそう。しかも、楽しい。いつの間にかのめり込んでいて、気がついたらめっちゃ成長していてビックリ」が誘引アプローチ!これが理想!

やみくもに相手に共感しようという気はありません。良いものは良い、ダメなものはダメ。ダメなものを良いと言うつもりはありません。おまえの勝手な判断で[良い-悪い]を決めるな!と言う人もいるでしょうが、判断するのは双方でしょう。私だけが判断しているのではないわけですから。

やみくもに相手に共感するつもりはなく、良いものは良くて、ダメなものはダメですが、しかしそれは、ダメなものをダメなまま放置するということでは勿論ありません。なんとかしようと行動します。その行動を、これまでは強制アプローチだったのに対し、これからは誘引アプローチにしたいんです。

ということを思い出し、
昨日は、昨秋の集中講義受講生から届いた講義感想文を読み返していました。反省点がありますから、喜び一色になりませんが、引き続き誘引アプローチのレベルを上げていきたいと思います。

今月初めの、理想追求型QCストーリー フォローアップセミナーは、誘引アプローチ第2弾の機会でした。相変わらず反省点がありますが、セミナー終了後のアンケートを読むと実行レベルは上がったかもしれません。

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【NHK視聴メモ】 共感したい。共感されたい。
2016/8/16(火) 午前 5:34

一番悲しいのは、自分の気持ちをわかってもらえないこと。
必要としていた時に助けてくれなかった。

給料を上げても増えない(中浜崇之氏)

仕事は自己実現。ただし、それはかつての「昇進」ではない。
「ありがとう」と言われたい。自分の存在を認めてほしい。自分がこの世に存在していることを自分自身が感じたい。「感謝されたい」は、人間の根源的なニーズではなく、自分の人生という物語は悪くなかったと思えることを実感する

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ようやく自分の原稿に取りかかれる
2016/8/17(水) 午後 10:00

ちょっとだけ弱音を吐くのを許してください。すこーし疲れました。なんといえばいいのか言葉がわからないのですが、「なんで自分がここまでやらなきゃいけないんだ」という気持ちが心に存在しているのをはっきり認識してしまっている。そんな感じです。いま、そこそこ酷い状況ですが、でもこの程度の過密状況は過去に何度も経験してること。それなのになんで今回はそんな気持ちが芽生えるのかなあ、、と考えてみたんです。なんとなくなのですが、

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目的の共有って、ほんと難しい。
2016/8/15(月) 午前 0:08

これだけ長い時間を共有してきたのだから大丈夫。そんな絶対的な安心感があり、任せっきりにしてました。が、蓋を開けてビックリ。まさかの趣旨と不一致。

目的の共有。意図の共有。これって本当に難しいですね。「コミュニケーション不足」を指摘されたら何も言い返せないです。が、そんな一言で原因認定しちゃあかんでしょ。グダグダ時間をかければいいという話じゃない。少ない機会であっても、目的・意図は伝えられたはず。あ、そうか。だから、コミュニケーション不足なのか。そっかそっか。

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2008年といえば、いま振り返るとこのあたりに経験したことはその後の自分の人生にとんでもない影響を及ぼしてます。
2016/9/29(木) 午後 10:34

今日、元LIXIL 藤森氏が講演のなかで「35歳から45歳に経験したことが、その人生に決定的な影響を及ぼす」という趣旨のことを仰っていました。
2008年といえば、S社の真っ最中。K社 2年目。Z社の前年。2008年の前後7年間がなければ、私の人生はまったく違うものになっていたのだろうなと思うと、なんだか寒気がします。小松で負けてポロポロ泣きながら球場を後にしたあのときの私は、その後の自分の人生がどうなっていくのかなんてまったく考えてませんでした。不思議です。不思議すぎます。

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朝から凹む。
2016/8/4(木) 午前 6:09

正直、「期待」は怖いです。
「信頼」と「期待」は違うでしょ。

最大の違いは、
相手がこちらの力量を分かった上で任せてくださるのが、信頼。
そうではなくて、力量がどれほどのものかわからないけど、任せてみようというのが、期待。

期待というのは、
相手から「あれ?」と思われた瞬間に、評価が逆転する。
期待を裏切ったら、次はない。
すくなくとも、その相手にとって大事な事柄を任せてもらえる次のチャンスはないと思う。

「へぇ。なかなかやるねー。じゃあ、次もこいつを使ってみようかな」
と思っていただけるようなパフォーマンスを出してしかるべきで、

でも、実際は、、、  ・・・・。  はぁ。。 朝からなんだか凹みます。

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タイトル 「共感」
2016/3/20(日) 午後 5:54

以前、ある企業の、女性だけで結成されたプロジェクトとご一緒したことがあります。女性も参画するプロジェクトというのは何回も経験がありましたが、女性しかいないプロジェクトは初めてで、進め方に関して試行錯誤の連続でした。たいへん勉強になりました。

そのプロジェクトのある時に、もともとは何の話だったのか覚えていないのですが、「女は共感で生きる生き物だ」という話を聞かせていただいたことがあります。その言葉がかなり印象的だったため、プロジェクト終了後にこれに関連する本を読み漁ってましたっけ。「なるほど。なるほど」という感じでした。

で、何を書きたいのかと申しますと・・・「共感で生きるのは女性だけか?」というトピックです。先日から自分に起きている心境変化や、さらにさかのぼって自分自身を振り返ってみると、ほかならぬ自分自身が共感でしか生きていないような気すらするんです。さすがに「共感だけで生きている」というのは言い過ぎかな。でも、「共感がないと力を発揮できない」というのは間違いなく自分の特性のような気がします。別の言い方をすると、「共感がないと、踏ん張りが効かない」。さらに別の言い方を試みると、
・ 共感があると、その人と一緒に喜びたいという気持ちが無限大になる
・ 共感があると、自分の資源配分の優先順位が根底から変わる
・ 共感があると、当初の目標のさらに上に行こうとする
・ 共感があると、要請されていること以上のことまで考えを巡らせる

こうして書くと、アホですな。

こういう話をしていてパッと思い出すのは、前職の入社4年目のとき、当時の部長が「おまえがこれをできないなら、俺は進退伺いだ」と言ってある大仕事を私に託したくれたこと。あのとき、残業時間は月200時間を超えてました。それが単月ではなく、数カ月続きました。いまのご時世なら大問題ですね。栄養失調、急性ぎっくり腰など、結構やらかしてしまいました。家に帰る時間はなく、会社に泊まり込んで、会社近くの銭湯に行ってましたっけ。

おそらく大変だったと思います (← まるで他人事ですね。あはは) いや、その、なんといいますか、そんなに大変じゃなかったんです。少なくとも、苦しくなかった。むしろ、楽しかった。そして、嬉しかった。部長は進退伺いだと言っている。こりゃ本気だ。その本気の仕事を自分に託してくれた。そのことが嬉しくて嬉しくてたまりませんでした。ああ、苦しい時はたしかにありましたねえ。そういえば。でもそれは、計算アルゴリズムのバグをどうしても取り除くことができなくて、どんな改善案も通用しなかった時です。そのバグを取っ払うのに3週間ほど要した記憶がありますが、この時はさすがにしんどかったかもですね。でも、それ以外は、嬉しくて楽しくて幸せをかみしめた月日でした。

この話は過去にこのブログでも書いたことがあるのですが、そのときは、「共感」という言葉を使っていなかったような気がします。そりゃそうですよね。相手は、駆け出しの私から見て、雲の上にいる人です。軽々しく「共感」なんて言葉を使えるような相手ではない。

【記述はここまで。中断】

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「「共感」が大事なのは疑う余地なし。しかし、、」
2016/3/20(日) 午後 10:33

ブログを書くようになってから、それ以前と比べて一番変わったことの一つは、ふと何かの言葉を書いた時、その言葉の意味を辞書であらためて調べるようになったことかな。今日は「気運」、「大義」、そして「共感」といった言葉の意味を調べてました。

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きょう‐かん【共感】 
[名](スル)他人の意見や感情などにそのとおりだと感じること。また、その気持ち。「―を覚える」「―を呼ぶ」「彼の主張に―する」
-------

今日いくつか投稿したうちの一つとして、「共感で生きる」という趣旨のことを投稿しました。そして、「自分は共感でしか生きていない」と書きました。その時はたしかにそう思って書いたのですが、いざ書いてみると、「ほんとにそう言い切れるか?」と思って、辞書で調べてみたんです。

「相手の意見、相手の感情に対して」なのですね。話がややこしくなってしまったかもしれない。

問題解決の基本的枠組みである「(1)現状」と「(2)目標(あるべき姿orありたい姿)」を考慮すると、たとえば、価格競争激化の現状を憂える相手に「うんうん。わかるわかる」というのは共感なんですよね?ウィキペディアで「共感」をみてみると、「共感(きょうかん、英語:empathy)は、他者と喜怒哀楽の感情を共有することを指す。もしくはその感情のこと」と書かれていますから。でも、達成すべき目標については「さっぱりわからん(=目標ボックスが空っぽ)」と言っている人には、「そんな状態だから、コモディティ化に陥るんじゃ!」と思ってしまう。それって、共感じゃないですよね。

あるいは、演繹推論の枠組みである「(1)事実」「(2)事実の解釈に用いるルール(価値基準)」「(3)解釈結果(演繹推論結果)」の3要素を用いて考えてみると、「これからの時代は、社会的価値を利害関係者たちと共創するという考え方が重要なんだ」という考え(演繹推論結果)に対する「まったくそのとおり!同感です!」という場合は、共感なんですよね?でも、相手がそう考える根拠(拠り所)として「自社が持続的に儲ける鍵は、他者の経営資源を取り入れることによる競争軸の多次元化だから」と言われると、「おいおい。。価値基準のトピックが利己的じゃないか!」と、賛同しかねます。それって、共感じゃないですよね。

共感という言葉。私はまだ分かってないのでは。。安易に「共感で生きる人間」なんて言えない。そもそも、こんな風に左脳で考えている時点で、「共感」とはどんどんかけ離れていっているのではないか。汗汗。や、やばい。。どツボにはまったかもしれん。

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「私の場合は「意見や感情」じゃなくて、「感情に裏打ちされた意見」ということなのかな??」
2016/3/20(日) 午後 11:24

さっきの投稿を自分で書いてて、うまくいえないのですが、「おい!なんかヘンだぞ!」と自分で自分に思います。なにがどうヘンなのかちゃんとわからないのですが。

「他人の意見や感情などにそのとおりだと感じること」という共感の定義が、混乱の度合いを高めてくれてます。とほほ。意見や感情?? 意見と感情を「や」で繋げるの?? 前者は左脳っぽい話で、後者は右脳っぽい話ですよね??

さらにさらに「一般に男性は女性より共感性が低い傾向がある」というウィキペディアの記述が混乱度をさらに高めます。これって、「「相手の感情にそっと寄り添う」は女性のほうが長けている」という意味なのかな??もし、そう解釈していいのなら、うん、感覚的にわかるような気がします。そうだとすると、、、私は、おそらく共感力に欠けてる。

いや、もうちょっと踏み込むと、「相手のいまの感情」に寄り添うのがヘタなだけでなく、「その言葉を言うと、相手はどういう感情を抱くのか」という予測ができてない。つまり、「相手の今の感情」はもとより、「相手のこのあとの感情」に対しても無頓着。事実を目の当たりにしてから、「しまった。。」と思う始末。非常に痛々しい。自分のそんなこと、自分で言いたいわけないのですが、でも、そう言わざるをえないですよね。これまでの数々のことを考えると。。はぁ。。

「意見や感情」のうち、明らかに相手の感情に対しての共感がへたくそ。じゃあ、共感できない人なのか?というと、そうも思えない。「そう思いたくない」というのが本音かな。意見や感情のうち、相手の意見に対して「そのとおりだ!」と感じた時に発揮する力は、自分でいうのはほんとなんなんですが、結構すごいと思うんですよね。「自分で言うな!」ですよね。はい、すみません。。でもですね、前職のとき、尊敬する部長から「あの件について俺の考えはこうだ。これしかないと考えている」と言われた時の「よっしゃー!!」と思った時のその後の怒涛の月200時間超の残業を数か月間もろともしなかったことや、K社のOさんが「日本の製造業のために、その進むべき道を我々としても真剣に考えてみたい。その答えとして、いまこう考えている」と聞かせていただいた時の「よっしゃーーー!!」の時も、同じ。相手の考えに自分の考えが一致した時の火事場のバカ力は尋常ではないと思ってます。そんな私は、共感タイプなのか、そうじゃないのか。わけわからんのです。

あ、でも、考えそのものは「そのとおり」と思えても、それが本心で言っているのかどうか判別つかない時、「この人、言葉だけかも」と思うことが多く、そういう時はバカ力なしです。つまり、「感情を伴った意見」が大事なのかも。感情そのものに対しては扱い下手なのですが、「意見そのもの」だけでもあまり動かなくて、その意見を信じていいのかどうかの判断に「相手の感情」をみようとしている。そういうこと?

だけど、それって、「相手の感情に寄り添う」というのとは全然違いますね。。頭がこんがらがってしまい、もうダメです。。急に話をまとめたらそりゃもうほんとアカンのですが、要するに、

感情は感情でも「本気」とか「覚悟」といった感情だけにやたらと反応するのかも。真田が「いつ死んでも悔いはない」という覚悟を込めて六文銭を家紋にしたと言われていますね。共感できる「考え」が六文銭感情を伴っていると、相手から感じた時に、完全なるエンゲージメントになるような気がします。これは逆の言い方をするとですね、どちらか一方を欠いている相手に対しては、感情的次元が反応しないんですね。おそらく。だから、オーナーシップに異常にうるさいわけだ。なるほど。

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「任命責任」
2016/3/27(日) 午前 5:39

赤間の起用の件は、考えさせられます。どういう言い方をすればいいのかな。ピタッとくる言葉がわからないのですが、相対的に一番近い言葉は、「任命責任」ということになるのかな。過去に何度か、「なんでこんなのをメンバーに入れたんだ!こんなやつは要らん!」ということがありました。そんな話をしていた時、ある方から「いまここで外すと、組織で彼にバッテンがついてしまう。外すにしてもそれに相応しい時期がある」と言われたことがあります。赤間の件は、この話とダブるんです。とどのつまり、問題は、起用する側にある。起用された側がもともと力が十分ではなかったのに起用したのなら、それは起用した側のエゴ。つまり、期待。

起用された側に力はあるものの、そのときの「状況」の影響を受ける可能性がある場合、一人立ちできるまでは起用する側が「状況づくり」および「状況対応」のサポートすべき。そして、起用される側が自力で状況づくりと状況対応ができるようになるよう、起用される側が制御できるパラメータを一つずつ増やしていってあげることが指導者(コーチ、上司、教員)の役割。そう考えてみると、昨日の試合は赤間本人がどうこうよりも、ブルペンコーチが気になります。遠目には、赤間にただただ投球練習させていたようにも映った。

ひるがえって私自身はどうか?話にならん。私は心のどこかに、みなが、吉田正尚のような「自ら状況を作り、対応することのできる潜在能力保有者」という非現実な前提を置いていたんじゃないだろうか。だから、「機会を与えさえすればいい」というやり方になってしまった。最悪なのは、機会を与えられた側がこちらが期待するアウトプットを出せなかった時にバッサリ斬ること。しかも、その判断が早い。情にほだされて引っ張ってしまうことが多くなりましたが、

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タイトル「戦う人が好き」
2016/3/30(水) 午後 5:44

万策尽きてもいないのに、「できない」という言葉が先に口に出る人は苦手です。というか、嫌い。そもそも、「万策尽きる」ということ自体がありえない。策はあるんです。「いまはまだ発案できていない」というだけの話。

この間の二次会で話を聞いていてわかったような気がします。あの欧州出張を境に、あの人に対する認識が一変した最大の理由は、「彼には彼のあるべき姿があり、そして、彼はその実現がどれだけ困難であっても諦めずに勝負している」と思ったから。それは「敬意」という言い方ができます。

「どうすればできるか」を考え抜く前に、「できない理由」を繰り返す人は嫌い。ほんと嫌い。

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「信頼」と「丸投げ」
2016/3/21(月) 午後 6:08

先日に覚えた違和感がきっかけで、この連休中は、いろいろ調べて回ってました。
・ 「信頼」と「期待」の違い
・ 「共感」とは
などなど。前者の「信頼と期待の違い」を調べている過程でメモしたことの一つは、「ヨソゴト上司からの信頼は、丸投げにならないのか?」です。ということで、「信頼」スペース「丸投げ」をググってみたところ、薫さんという方の興味深いブログを発見!( http://ameblo.jp/rikejyo/entry-11338925254.html )

--以下、引用--
私が、「任せられている」と感じたときは、
・ 上司からその仕事を担当して欲しいという正式な依頼がある。
・ その仕事の方向性や、アウトプットの仕方についての摺合せはきちんと行う。
・ 上司は進捗状況を把握しており、部下である自分が困って相談にいくと、相談にのってくれる。
・ 結果が出たら、「やったね!」と一緒に喜んでくれる。
・ 指示という形での口出しはせず、「こういう考え方もあるんじゃ?」という提案型のアドバイスをくれる。

逆に、私が「丸投げ」されていると感じたときは、
・ 上司に仕事の目的を説明される。その仕事の背景や必要性、どんなアウトプットが欲しいか等の説明はない。
・ 結果の報告や、相談をしにいくと、あまり本筋と関係がない細かいところに指摘が入り、細かい指示をされる。
・ 結果を伝えにいって、上司が心の中で思っていた結果と違うと、やり直しが命ぜられる。ときには、なんでそんなことやっているのと言われる。薫さんのこの記述は、私が先日に抱いた違和感にかなり関わってると思います。これ以上の言及を避けますが。

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「なにかとても大事なことを書けていない」
2016/3/21(月) 午前 6:19

考え事してたら、まさかの朝6時すぎになってしまいました。昨日は珍しくいろいろ書きましたが、なにかとても大事なことが丸ごと抜けているような気がします。もう一昨年のことなのですね。正直、いまも胸に突き刺さっています。

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「信頼したい(信じて、頼りたい)!共感したい!だから、即、実践!」
2016/3/21(月) 午後 6:49

丁寧にまとめるのは後にして、ひとまず、忘れないように大事なとこだけメモメモメモ。

まず、私は「期待」と「信頼」が混在していた。「本人の潜在能力を伸ばすことに重きを置く」と言っておきながら、一定以上のアウトプットを求めていた。前者は「信頼」の様相を呈しているけど、後者は「期待」。どちらも重視していて、「期待オンリー」ということはないけど、時間圧がかかった事案では明らかに後者優勢。「これくらいできてほしい」という期待があるだけに、それに満たないと、失望する。ただ失望するだけならまだしも、相手に対して怒りを覚える。

期待はエゴ。信頼は愛。

〔期待クセが強い自分への戒め〕
他人に期待しているというのは、ある物事を他人に依存しているのと同じ。期待とは、相手に対する「依存」。その人が自分の期待を受け入れて行動してくれるかで自分の幸せが決まってしまう。自分のいい気分を他人任せにしない!

一方、信頼とは、相手の存在や長所・価値・才能を見ること。その人の才能を信頼していれば、今回はできなくても相手への信頼は失われない。〔今回はできなかった≠その人間の才能が無くなってしまった〕なのだ。信頼とは、その人への『愛』。

信頼するには、
共感が必要。共感力は、信頼形成の基盤。共感とは「合う」こと。相手の意見や感情に寄り添うこと。

相手が自認する「can」に寄り添う
相手が願う「ありたい姿」に寄り添う。その上で、相手を信じて、頼る。

〔信じて、頼る際の5項目〕
・ 仕事が生まれた背景や目的
・ 達成事項(要求レベル)
・ 良し悪しの判断軸とその優先順位
・ 他の仕事と比べた優先順位
・ 期限

--以下、転載--
「期待する」ということは、ごくごく私的に完結することであり、あくまで自分が勝手に思っていることに過ぎません。自分の中で「完結」しているにも関わらず、それが「当然」のように起こるものだと錯覚しています。その結果として、期待は失望につながる

「あの人ならちゃんとやってくれるだろう。」これは期待です。やってもらわなければ困る、できて当然という自分の価値観と欲求からきています。期待は自分の欲求がベースにあるので、『愛』とはかけ離れたものになります。「~のはず」「~してくれる」「~に違いない」などは、自分の思いが期待であることの指標になります。

一方信頼とは、相手の存在や長所・価値・才能を見ることです。その人の才能を信頼していれば、今回はできなくても相手への信頼は失われないのです。才能が無くなってしまったわけではないから。いわば、その人自身への『愛』なのです。

期待はその通りにならないと怒ったり悲しんだり、失望します。
信頼はその通りにならなくても励まし、助け、見守ることができます。

他人に期待しているというのは、ある物事を他人に依存しているのと同じです。その人が自分の期待を受け入れて行動してくれるかで自分の幸せが決まってしまうのです。人生のハンドルは自分で握りましょう。他人がマナーを守ることを期待しなければ、マナーの悪い人にイライラしたりしません。言葉での愛情表現を期待しなければ、恋人の愛情表現が行動ということに気づくかもしれません。自分のいい気分を他人任せにしないようにするのです。

出典: 
http://ameblo.jp/kubomichi/entry-10389967490.html
http://www.counselingservice.jp/lecture/lec555-2.html
(ほかにも出典があるので、後ほど追記します)

「期待」と「信頼」。一部の人を除き、基本的に人を信頼していない。自分が勝手に作り上げた価値基準ルールを相手に押し付け、相手もきっとそうだろうと「期待」してきた。しかし、現実はそううまくいかない。結果、失望する。相手に対して怒りを覚える。心理学によると、期待というのは、相手に対する「依存」らしい。

勘違い野郎の場合、良い結果になるわけがない。「条件付き」になっていることに気づく。ヨソゴト上司からの信頼は、丸投げ。

安心感の中にいるから、人は本来の力を発揮できる。逆に、怖れている時は結果がでなくなるもの。傍から見てどれだけ緊迫状況に見えても、当の本人にとっては「安心感に包まれた状況」になるようにするには、日ごろからどうすべきか。

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タイトル 「よーーーっし!やったるでー!!「寄り添える人」を目指す!」
2016/3/21(月) 午後 7:46

この時期に知ることができてよかったです。西尾プロジェクトで実践するぞー! 組織実態アンケートや、品質管理シンポジウムでの実際の声などから想像するに、「モノ志向」や「下請けに成り下がっていると映る意識」などを目の当たりにする場があると思う。その様子を目の当たりにした時の私の言動は、その後の展開を左右してしまうと思う。

私が考えていること、あるべき姿として私が描いていることは、あくまで私が自己完結型で勝手にこしらえたものであり、そうではない考えや理想はあって当然。重要なことは、違いを乗り越えて、双方の思惑を超越する第3の点を作ること。そのためには、相手方が置かれた状況やそこに至る経緯に寄り添い、自分ゴトとして受け止めること。実際にやってみると反省点はいろいろ出てくることでしょう。「反省点は次に繋がる改善としてありがたい材料」とポジティブに考えて、やったろー!と思います。

追記. これまでいろいろな企業とご一緒してきましたが、今までは大企業のみでした。中小規模企業は初めてです。今回はほんとに「相手方に共感できる程度」が成否を分かつ決定因になるんじゃないかと思えてきました。

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助けてほしい時に助けてくれないのは、知り合い。助けてほしい時に助けてくれるのが、友人。助けてほしいと思う前に助けてくれるのが、親族。
2016/3/25(金) 午前 0:42

今日、書き留めたことです。そしてもう一つ書き留めた大事なことは、「自分の力を信頼できない人間に、人を信頼することなどできない」。期待はエゴ。信頼は愛。期待というのは、期待する側が根拠なく勝手に描いた虚構絵であり、エゴ以外の何物でもない。一方、信頼というのはその対象の力を認識した上で、納期を取っ払った理想絵。それはその対象への愛。この3連休に私が認めざるを得なかったことは、私は人を信頼したつもりで、実は期待しかしていなかった。

数年前に、卒業生から「先生は期待しすぎている」と指摘されたのですが、その時は「期待できなくなったら、終わりじゃねえか!」と思ったのですが、いまは素直に、「たしかに。」と思います。私は結局、自分のエゴで期待しかしていなかったんだと思います。自分の力を信頼できない人間に、人を信頼することなどできない。それはつまり、私は自分の力を信頼できていなかったということなのでしょうか。非常に恥ずかしい。ほんと情けない。「鳴かぬなら殺してしまえ ほととぎす」は、期待。「鳴かぬなら鳴くまで待とう ほととぎす」は信頼。
自分を信頼し、だからこそ、人を信頼することができる。そんな人間になりたいです。

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心臓が口から出てくるかと思った(◎_◎;)
2016/3/28(月) 午前 1:44

最後は心臓が口から出てきそうでしたが、「信じよう」「信じよう」と自分に言い聞かせて観てました。そうなんです!「期待と信頼の違い」を知ってから、なんかですね、日常的な出来事にも意識が変わろうとしているのかもしれません。まだ、数日なのでなんともいえませんけど。あはは。

期待というのは、期待する側の勝手なエゴ。信頼というのは、相手の能力を理解した上での、相手への愛。でしょ?期待には「期待が裏切られる」という言い方があるけど、信頼にはそもそも「裏切られる/裏切られない」というものがない。開幕戦のサヨナラ負けはなにがなんだかわからない心境になりましたが、2戦目は負けは負けでもいつもと違う心境でした。そして、今日の第3戦。開幕戦でサヨナラ負けしたコーディエが、第3戦の最終回にマウンドへ。先頭のメヒアに初球のストレートを右中間に運ばれ、いかなりノーアウト2塁。球場全体が異様な雰囲気になりました。次打者は4番おかわり。カウントが、3ボール、1ストライクになった時、自分の変化に気づきました。その変化は「福良監督がコーディエの様子を見て、酒井投手コーチと話し合って決めて送り出したのだから、何が起きようと受け入れよう」というものでした。最後は空振り三振。ものすごい試合でした。見応えあったけど、ヘトヘトに疲れました。

ずいぶん前に、当時、仕事でご一緒していた企業の方から、「プロ野球なんて自分が結果に関与できるものでもなく、観ているだけ。それの何が面白いのか?」と言われたことがあります (← 端的に書きすぎましたが、実際はもっと紳士的で丁寧な言い方です。念のため。あのときはうまく答えられなかったのですが、いまはちゃんと答えることができます。自分の力が結果に直接関与できないからこその、プロ野球の魅力。先日の3連休にドカドカ書いた文脈に即して言うと、私にとってプロ野球の最大の魅力は「相手を信頼する力を養う」ことができること。自分の力を直接関与させようがないので、信頼することしかできない。なんて偉そうなこと言ってますが、正直、以前は「信頼」ではなく、「期待」でした。だから、負けるとブリブリ怒っていた。

エゴに基づく「期待」が鳴りを潜めるようになったきっかけは、キャンプに足を運ぶようになったことが大きいと思う。それまでは、公式戦しか見ていませんでした。見えるのは、成果だけ。だから、成績が悪い選手には「なにやってんだ!」しかありませんでした。キャンプを見るようになってから、各選手の成長の様子を自分の目で見るようになりました。たとえば、、マシン打撃には強い打球を飛ばすけど、生身の人間が相手だとタイミングを外されて上体がブレて走り打ちになっている、など自分の目でみてます。T-岡田が大好きなのは最後の一人がいなくなるまで丁寧にサインしてくれることだけでなく、彼はほんとうに練習熱心で、キャンプではいつも日が暮れるまでがんばっているから。そういう様子を見ることは、「信頼」の「相手の力を知った上で」という要件を満たします。だから、公式戦でのプレーを信頼することができるのではないだろうか。そんな気がします。昨日の逆転負けは残念でなりませんでした。が、キャンプから赤間を見ていた私は、4回に赤間投入が間違っていたとは思いません。キャンプそしてオープン戦の赤間を見れば、首脳陣が投入したくなるのは至極当然だと思う。結果的に試合の流れを自ら手放すことになりましたが、それは仕方なかったと思う。オリックスバファローズを信頼しているから、だから、今日は勝ててほんとうによかった。すごく嬉しいです。

オリックスバファローズに対してできるのだから、仕事など公私を問わず、できるはず。問題は、自分の力がパフォーマンス結果に直接関与する事案になると、仲間に対して信頼よりも、期待のほうが優勢になる場合がままあること。その最大の原因の一つは、余裕の無さ。余裕がなくなると、待てなくなる。「期限が設定されると、とたんに力を出せなくなる」という非常に悪いクセもこれと関係があるのだと思う。あの悲しい出来事は、無茶な計画が招いたと言えるのではないだろうか。どんな局面であろうと、いかに余裕を作るか。これが当面の最大の課題なんじゃなかろうか。そんな気がします。

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「こちらがまだならば、あちらがある。ツートップを作ることが解決策なのかな?」
2016/3/29(火) 午後 11:12

んー。ダメでした。3月の3連休以降、「not期待、but信頼」と繰り返し言っておきながら、結局期待でしかない。

「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」を徹底するには、「所定の期日までにしかるべき成果をあげよ」から自分を解放しないかぎり困難。ということを再認識すべく突きつけられた感じです。

待てるようになるためには、双璧を持っていることが鍵。それが、高圧的な言動をなくす最強の方策。

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「自分の出番はどこからなのか?非常に迷う」
2016/4/6(水) 午前 2:25

なんかため息が出ちゃいます。どうすべきなんだろうか。過去に某社とプロジェクトをご一緒した際、いつの間にか「加藤プロジェクト」と呼ばられるようになったことに大きな違和感を覚えたことがありました。その違和感というのは非常にシンプルで、「このプロジェクトはみなさんのものであり、私のためのプロジェクトじゃない!」というものです。まあ、当時のメンバーは別にそういう意味で言ったわけではないのでしょうけど。

最近、似たような違和感を覚えました。上述よりも、えげつない内容です。あのですね、、、私はこれまで一度もプロジェクトを私物化しようとしたことはないだけに、とても残念な気持ちになりました。本来のあるべき姿は、依頼側に明確な狙いがあり、私はそれを実現するアプローチを提案する。ということだと思います。しかし、最近の傾向は、先立って明確にされているべき「依頼側の狙い」が、明確になっていない。

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期待するな!期待したらアカン!
2016/4/12(火) 午前 2:25

分かってほしい。そういう気持ちはもちろんありますが、いまの、この種の状況は、特に期待禁物。ほんとに気をつけたほうがいい。おそらく、「分かってほしい」のレベルがすこぶる高くなっているはず。「分かってくれているような感じ」ではダメで、寸分のズレなくジャストミートな「ものすごく分かってくれている」というのを心のどこかで求めている節アリ。危険です。大変危険。「期待」にくっつく述語は、「裏切られる」であることに、とにかく注意。
期待するな。同じ轍を踏むまい。踏んだらあかん。

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心理的安全性
2016/7/10(日) 午後 10:48

今日、いろいろ調べていて、Google社が突き止めた「心理的安全性の重要性」という記事を見ました。なんといえばいいのかな。えーっと、、、正直に言うと、私に一番欠けていたものかなと思いました。これが欠けていたから、いろいろ招くべくして招いたんじゃないかと。

私は「泣かぬなら殺してしまえ殺してしまえホトトギス」のタイプです。「です」を、「でした」にしようとしています。まだ、その過程です。まだ心得ることができているとは言えませんが、なにか自分のなかで変化が起きていることも感じ始めています。

そのきっかけは、今年3月あたりのブログに書いた「期待」と「信頼」の違いに言及したあたりからかな。とても大事なことは、その者の心理的安全性を担保する、その人間が有するシーズを大事にすること。そして、そのことをその人間にエビデンス付きで明確に口に出して伝えること。これが私が考える心理的安全性の第一歩。ただし、それはあくまで第一歩。私自身がかつてやらかしてしまったのですが、「安全」と「安住」は全然違う。安全は次の展開に繋ぐ基盤になるけど、安住したら次の展開はない。

だから、さきのシーズを育むと、このさきどのような展望が拓かれる可能性があるか。その実現がどれだけ自他に喜びをもたらすか。その実現に挑めば失敗がつきまとうが、そんなことは周りがなんとでもフォローする用意がある。それを、きちんと伝えることが、安心してチャレンジする勇気を本人にもたらすのではないか。そんなふうに思うようになりました。

いままでの私との最大の違いは、「失敗しても大丈夫」という点の有無です。いままでは、それがまったくなかった。なんとか、「鳴かぬなら鳴くまで待とう」になろうとしています。いままでとの違いについて、別の言い方をすると、いままでは、その人間のシーズを認めるというより、その人間の長所を褒めるに留まっていたと思う。両者は似ているけど、違う。VBridgeの層構造を用いて言うと、後者は、すでに顕在化している「機能(さらに言うと、その機能は「他律機能」)を認めるに留まっている。それ以上はない。今後のさらなる発展については触れていない。単に、現状肯定。もちろん、それはそれで大事なことだとは思う。しかし、これに留まると、「安住」になってしまう危険性がある。安全になるか、安住になるかは、本人の野心に依存することになる。

一方、前者は、機能という点では同じだけど、他律機能ではなく、自律機能。「すでに有する自律機能を更に活かせば、素晴らしい他律機能を発現できるのではないか。たとえば、・・・。そして、それができれば、さらに今後は、・・・」と言えるようその人間の可能性を見よう見ようとしている。

両者の最大の違いは、さらなる他律機能の創出を共創しようとしているかどうか。徹底的に自律機能を肯定する。そして、それがなんらかの他律機能をすでに発揮していることを顕在的に認める。そのような自律機能と他律機能のセットを確実にして、周りがそれを認めることが、心理的安全性の第一歩なんじゃないか。と、いまは考えてます。

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「方向」だけを評価対象にして、「進み度合い」を評価対象外にすれば、改善されるのではないか。
2016/8/11(木) 午前 1:05

私に必要なのは、もしかしたら、フォアキャスティングなのではないか?バックキャスティングの度合いが強すぎて、星に近づかない現状にイラついてしまう。しかも、そのイラつき度合いが激しい。いまは、「ゴール(=星)」と「現状」が、どれだけ縮まったかを評価対象にしている。

そうではなくて、現場ではゴールを放りだす感覚を持てば、「現状」しかなくなる。現状から良い方向に動いているかどうかだけを評価対象にすれば、正すのは、「方向」だけになる。その方向への「進み度合い」は評価対象外になる。つまり、ベクトルだけを評価対象にして、スカラーを対象外にする。ということになりますね。そうすれば、少なくとも、いまのイラつき度合いは鎮まるのではないか。違うかな?どうなのかな?


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